「ひとりになる時」 04−02−08
ルカ12:49〜53
主は、<わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。
言っておくが、むしろ分裂だ>(52節)とおっしゃいます。聖書では、地上は罪と
滅びの世界で、暗闇と言われることがあります。
主は、私たちをそこにとどまらせるのではなく、そこから引っぱり出し、罪と滅びから
贖(あがな)い取り、ご自分のもとに移し変え、神の民とするためにおいでになりました。
主イエスは、私たちを罪と滅びから分裂させてくださり、それによって私たちは
救われたのです。
<わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである>(49節)ともおっしゃいます。
火は、裁きを意味する言葉です。主イエスは、最後の時の裁き主として、火を投じる
方です。
しかし、その前にも火を投じてくださいました。
主は、精錬する火を与えてくださいました。火で精錬することで金の不純物は
取り除かれます。その精錬する火がまだ燃えていないゆえに、「主は受けねば
ならない洗礼がある」と おっしゃるのです。それは十字架です。
主は、私たちを精錬し、罪を取り除く火となるために十字架にかかってくださいました。
主の投じる火は、罪を取り除く火でもあります。
主は、聖霊の火も与えてくださいました。
信仰者として生きる時に、そうではない人との間に摩擦や対立が起こることが
あります。
愛する家族との間でも起こりうることです(52-53節)。私たちは、それに悩みます。
しかし、そんな私たちを励まし、私たちに言葉と力を与える聖霊を送ってください
ました。
聖霊降臨日に聖霊を受けた弟子たちは、救いを宣べ伝えるものとなりました。
聖霊の火は、対立や摩擦の中で主を証させ、愛する者を救いに導くために
対立を超えて結びつき続ける力を与えてくれます。
主は、私たちを愛する者との対立のままにしておかれはしないのです。
主は、裁きの火を投じる前に、私たちの罪を取り除く火を投じ、愛する者に
救いを宣べ伝えることを助ける火を投じてくださっています。